英語から書くか、日本語から書くか、それが問題
英語から書くか、日本語から書くか、それが問題
まずは、このブログで書いたやつを早く本ブログに翻訳していかないとなあと思っているのですが、学習効果的にどうなのでしょう。
率直に言って、日本語と英語は別々で考えるべきというのが個人的な考えです。
別々にというのは、翻訳の形で学習するのではなく、英語は英語として捉え、日本語から訳したり、訳されたりするのはその理解を遅くさせるのではないかということです。
特に、言語というものは、本来、伝えたいことを伝えるためのものであり、または相手が伝えたい事を読み取るものです。したがって、この目的が達成されることが何より重要となります。
ここで、やはり英語的な伝え方と日本語的な伝え方というのは違うと思うわけで、それは、文化の違いなどから見ても明らかです。
もちろん、共通する部分はあります。それを捉えて、英語を日本語的に変換するとこうなるという思考は可能です。
しかし、変換作業にはやはりロスが生じるのが常です。
例えば、英会話をする場合、この変換を前提にすると、「英語を聞いて、日本語に変換し、それをさらに英語に直して」というような作業をすることになります。
しかし、英語で聞いて、英語で理解し、英語で返すとなると、ロスは激減すると思われます。
上記の理解としては、ソフトにおける互換性のようなものでしょうか。
別々のソフトとして捉えるか、または互換性がなければ動かないソフトとして捉えるか。
どちらにもメリット、デメリットが有ると思います。
別々にソフトを作りなおすと、時間がかかります。しかし、依存関係がないのでそれぞれのソフトが独立して発展できます。
反対に、依存ツールを使うと時間を完成までの短縮できます。しかし、このような依存関係が本来目指したソフトの機能などの足を引っ張ることがあります。
この前紹介した本などは、英語を英語として理解する事を手助けするものです。したがって、どちらかと言うと前者のような別々のソフトを作るやり方だと考えられます。
ここで、どちらが英語の学習に最も適しているのでしょうか。
答えとしては、最初は依存ツール(日本語)を使って翻訳などをしながら学習し、ある段階で別々にソフトを作りなおす、依存関係を解消する学習方法が良いのではないかと思います。
つまり、学習初期の段階ではよりとっつきやすい後者の方法を採用し、その後、前者の方法に切り替えるというやり方です。
しかし、切り替えるといっても、それは容易ではありません。意識していないと出来ないだろうし、かつ切り替えには一定の負担が予想されます。今までのやり方を変えるわけですからね。どのような事柄であっても、今まで自分がしてきたやり方を変えるのは負担がかかるものです。
ということで、適当に興味のあるテーマを翻訳していくことから始めることにします。
なんでかって?
私は基本、すごく適当で行き当たりばったりなんですよ。